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四月十二日のブログで、生姜について書いたとき、人が手をかけないと育たない植物に関して、態度保留のように書きました。 頭をひやして、思い返しました。 自分の原点に戻ります。 あくまでも、基本は「取って喰らう」です。 生姜はその定義からはずれます。 それで得られないものが欲しければ、喰っちゃ寝の生活以外の行動を取らなければならないでしょう。 それを労働とよびたければ労働です。 そうしなければ得る事のできないものが贅沢品です。 生姜が欲しければ、株分けして植える。 絶対に喰いたい野菜があれば、種を取っておいて、栽培する。 米が食いたけりゃ自分で植えて、収穫し、脱穀して、ご飯をつくる(今のところ、米は小生の予定には入っていません)。 人それぞれ、「絶対」になければいやだ、というものが有るでしょう。 それが「贅沢」なのです。 たとえ、それが、たかだか生姜であってもです。 人の基本的必要条件である、食っちゃ寝は誰もが生まれながらにして確保するもの。 能動的に行動を起こさないと得る事のできないものが贅沢。 欲しいものが有るならば、どんどん努力しましょう。 只、努力するのは、しなければいけないからでは、絶対にありません。 ここに、ハッキリと線をひきたいのです。 草花亭 一茶菜斎。 #
by sokate
| 2005-04-14 23:05
| 草花亭
しょうが。 生姜。 Ginger. Andrew Dalbyという言語学者で歴史学者の書かれた「スパイスの人類史」、樋口幸子訳、原書房、という本を見ていたら、生姜についての項目がありました。 言葉の出所を遡っていくと、六千年前に、いまの中国南東部から台湾あたりに住んでいたオーストロネシア人のオーストロネシア祖語にたどり着くそうです。 オーストロネシア人はそれから南に、西に、東にと枝分かれして行き、マダガスカル島からイースター島までたどり着いたそうです。 この大移動の時、いつも生姜を持って移動し、いく先々で栽培してきたと、ダルビー先生は想定されています。 生姜の特徴について「ショウガ科のほかの植物と違って、根茎の分割でふやす。」と紹介し、「非常に長い間人間の手で栽培されてきたため元の野生植物のもっていた重要な特性がうしなわれた。」と説明しています。 文脈から、種をつくる能力を失ったと、言い切っているようです。 伊澤一男博士の「薬草カラー大事典」をみると「もともと熱帯原産の植物で、日本では、暖地でまれに花を見ることができる程度。 一般には、温室で栽培しない限り、花は咲かない。 そのために種子ができないので、栽培はすべて地下根茎の株分けによる。」となっている。 こちらだと、温室で栽培すれば花が咲き、種子がとれるようにきこえます。 ただ、園芸関係のサイトを見回しても、種子のことはでてきませんでした。 「しょうがの種」と書かれているものは、「ジャガイモの種芋」でつかわれているように、すべて植え付け用の「根茎」のことでした。 なぜ、こんなことに時間をとられているかというと、理想郷の食べ物は人が手をくわえなくても勝手にそだつものを想定しているからです。 もしも、生姜は人が手を加えてきたがために、自生できなくなった(ほかにも同じ状況の野菜などありそう)となると、食べ物をかんがえるときの問題がひとつふえます。 ほったらかしを修正するか、生姜(やその他、人手によってのみつくられる植物)をあきらめるか。 生姜ほどハッキリとしているかどうかは別としても、軟弱になりすぎた栽培種の野菜はいろいろありそうです。 また、調べる事が増えました。 草花亭 一茶菜斎でした。 #
by sokate
| 2005-04-12 14:28
| 草花亭
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by sokate
| 2005-03-20 23:24
| 草花亭
クレイグ・スタンフォード著「直立歩行 進化への鍵」(原作名: UPRIGHT the Evolutionary Key to Becoming Human)という本を読みました。 類人猿から原人を経て現代人へと進化してきた人類の生い立ちについての諸説をだらだらと述べ、学会内での喧嘩の展開を紹介しながら、2003年の時点での 主な説が書かれています。 殆どの内容は古い話の繰り返しでしたが、チョッと興味を引いた点もありました。 母方からしか伝わらないミトコンドリアDNAの追跡調査によって、現在地球上に存在する六十数億人の人間は全員、アフリカに住んでいた一人の女性、ニック・ネーム「イヴ」、の子孫だ、と言う事は以前にも聞いた事があります。 只、それが十四万年前だったことは、聞き忘れていました。 今回改めてこの数字を見て、天文学的な時間のスケールはさて置き、ダーウィン流の進化のスピードから考えても、ついこの間の事だと思いました。 我ら、ホモ・サピエンス・サピエンスはこの世に出現したばかりだと。 そして、そんな短期間の間にこれほどの愚を積み重ねてきてしまったのですから、追っ付け、消え去るべくして消えて行く、進化の過程での失敗作の可能性が高いと危惧しています。 もうひとつ、興味を持ったのは、農業の始まりについて言及している事です。 数万年前と書かれていました。 その根拠は、中央ヨーロッパの数ヶ所で、四万年前の遺跡から「石刃といった見事に改良された道具」が見つかり、三万年前にはこのような道具が世界全体に広がっていたからだそうです。 取り合えず、この説を参考にします。 何がしかの形で、植物を扱う道具が存在したと(然し、この事自体は農業の存在の説明にはならないと思いますけど)。 以前の記事で、ヒト本来の食べ物が農作物であったはずがないと書きました。 今もそう思っています。 然し、今後、スタンフォード氏の書かれたように、数万年前から農業があり、なおかつ、それが食べ物の主流であった、と言ったことが立証される様な事が起きれば、私の「正しい食べ物」探しを推し進める時の評価基準について、今一度考察を加える事が必要となるでしょう。 其れまでは、引き続き、現在の農業に繋がる人間の能動的な植物管理・生産は最後の氷河期が一万二千年前に終わってからの事、と言う前提で続けます。 草花亭 一茶菜斎。 #
by sokate
| 2005-03-09 22:02
| 草花亭
去年の十一月十三日の記事で「病死について」書きました。 最近は、全ての死因の中で、生活習慣病に因る死亡が75パーセントです。 長年の間違った生活パターンのせいです。 その主たる原因は食べ物。 食うべきものを食わず、へんてこりんなものを食べてきた結果が生活習慣病です。 因果関係がハッキリしているので、この75パーセントの死亡を無くすのは簡単です。 食を正せばいいのです。 只、問題は何が正しい食べ物かに関して無知なこと。 そして、自己家畜化された生活の中では、食べ物は生産者によって提供されたものの中からしか選べないこと。 これを更にこじらせているのが、ヒトの味覚感覚に偏見が起こり易いこと。 甘くないものより甘いものに惹かれる。 淡白な味より濃い味を好む。 しぉっぱさも、慣れると、それが当たり前になってしまう。 脂肪の多いものほどうまいと感じる。 化学調味料が入っているものでも、慣れてしまえば、その味が普通に成ってしまい、入っていないと物足りなく感じてしまうようになる。 この辺まで来てしまうと、生活習慣病にならないほうがおかしい。 どうしても生活習慣病で死にたいので日々努力している、としか想像できません。 罹らなくていい病気で死ぬ人が大勢居る中、長寿に付いての研究をなされた方々も多くいらっしゃいます。 家森幸男先生の研究もそうです。 世界中の長寿村を調査して、どんな物を食べているのかを見て、食べ物と健康状態との関係を探っておられます。 研究結果から色々なヒントを得ることが出来ると思います。 良い食と悪い食が有ります。 良い食をしている人達には、病気に罹らず、長生きすることが、(良い食をしていない人達に比べて)比較的、多くいます。 絶対では有りません。 相対的に、です。 完全な回答ではありません。 しかし、正しい食を追及する出発点にはなります。 今まで勉強させていただいた多くの研究は「長寿」の研究、「長寿」になるための秘訣、といったものが多いと思います。 いかにして、長生きすることが出来るか、が目的のように見えます。 秦の始皇帝の願望と同じに聞こえます。 ここで、一つ明記して置きたい事は、私の狙いは「長寿」ではありません。 長寿村の住民は、一生を通して大病に罹らない人が多いので、生活習慣病を避けるのに向いている食生活を考える時の参考にしたいから、関連しそうな色々な書物を漁っているのです。 私の狙いは「寿命」を全うする事です。 飢餓と不慮の死(生活習慣病による死を含む)に合わず、生まれた日から最後まで、充実した健康な一生を過ごし、老衰で去ることです。 「寿命」が何年で有るのかは問題では有りません。 五十年なら、五十年で結構。 百年なら、百年で結構。 それを全うする事がヒトの存在理由と考えているからです。 草花亭 一茶菜斎。 #
by sokate
| 2005-03-03 14:29
| 草花亭
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