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話の展開として、ゆっくりと、一つ一つ、理詰めで、思考のステップを積み上げて行こうと考えていたのですが、方針を変えます。 結論の一部を先に発表して、後付で、そこに至った過程を、必要に応じて書き加えて行こうと思います。 気が付いた事は、自分の日々の行動の中から、動物として絶対に必要な基本の部分と、後から日常生活に取り込んだ、人為的な部分とを、ハッキリと区別する事が、出発点だと言う事です。 自由に飛び回っている鳥や、野生の生き物達は、自分に取って絶対に必要な事は、はずさずにやっているのです。 それ以上でも以下でもないのです。 それ以上の事はやらないでしょう。 これが、人間以外の生物が、「生計を維持する悩み」を持っていない理由の重要なポイントでしょう。 余分な荷物を背負っていないのです。 絶対にやらなければいけない事は、「喰っちゃ寝、喰っちゃ寝」だけです。これを維持する事を完璧に心得ていれば、「生き」は保障されます。 ヒトも、他の動物も、ここさえ押さえれば良いのです。 あとはオマケなのです。 「オマケ」では意味がハッキリとしないと仰るのでしたら、「文明」が創り上げたもの全てと言い換えましょうか。 曲者は、この、最低限必要の、「喰っちゃ寝」を確保するという、ヒトの、あいや、全生物の必須項目と、経済システム的分業体制を駆使しないと得る事の出来ない、製造物に拠って構築されている「オマケ」の部分とを混同してしまっている事です。 余りにも長いこと(多分、一万二千年ほど)、分業と経済的システムを続けてきた為、基もとの、根っこの所に有った基本を忘れ去ってきたようです。 「ヒト」の存在している、存在するべく、理由は、生まれた瞬間から死ぬ瞬間までを、喰っちゃ寝、喰っちゃ寝を続け、寿命を全うする事です。 それ以上でも以下でも無いのです。 それが本来の「生」の目的です。 その間、生きている間に、他にも、色々な事を遣りたいと仰るのなら、どうぞ、どうぞ、 幾らでもやって下さい。遣りたい事を邪魔する積りは有りません。 でも、憶えておいて下さいよ。 オマケはオマケなのですから。 基本の「喰っちゃ寝」は、絶対に確保しなければならないのです。 これを確立して行く事がとても大事です。 如何したら、「喰う」を保障出来るのか。 その答えを得る為に、生物の食生活に着眼して見ました。 猿で在ろうが、鳥で在ろうが、昆虫だろうと、この世の生物は皆、自ずと対応した食べ物が廻りに有ります。と言うよりも、餌に成る物が在る生物のみが生存し続けて来たと言っても良いでしょう。 ヒトも野生の生物の一つです。 たかが、この一万二千年程はいざ知らず、六百万年に及ぶご先祖様の生き様は、周りに充分な餌が、常に、存在した証明です。 ヒトの正しい餌は自然界に元々存在する物の中にある筈です。 農耕の始まる前に、です。 もっと、突き詰めて言うならば、ヒトの本来の餌は、農作物では在り得ない、と言う事です。 では、何なのでしょうか。 それは、ヒトが、簡単に取って食らう事の出来る物です。 ヒトの身体能力は限られています。 其の範囲で調達可能なものに限定されます。 と言う事は、動かないもの、或いは、動きの遅いものです。 考えられるのは植物(及び、キノコのような菌類)と余りすばしっこくない動物です。 ちょっと前に、話題になっていたものに「素食の進め」とか言った話が有りましたね。 贅沢を戒める、と言った趣旨で。 そこで、クイズです。 お食事、AコースとBコースが有ります。 Aコースは、ご飯と味噌汁と香の物と干物一品です。 Bコースは、生ウニとアワビの刺し身と伊勢海老の鬼殻焼きと旬の果物です。 どっちが「素食」なのでしょうか。 私が言っている事に少しでも興味の有る方は、100%間違えなく、Bコースを選んでくれた事と信じています。 こちらが正解です。 Aコースの品物は全て、人間が手間隙かけて作り上げた物です。 ご飯のお米を、どうやって作るかは、ご自分で農作業をされたことがなくても、大体分かっている積りの方が大勢いらっしゃることと思います。 本で読んだことがあるとか、 稲の生長過程を記録した写真集を見たとか。 それを見ただけでも大変な作業の集積だとお分かりになると思います。 でも、稲作の全過程の中で、とてつもなく重要な事は水周りのシステムの構築、管理です。 この完成されたシステムが、弥生時代に日本に導入されました。 これは、単に新しい食用農産物がもたらせられたと言うような、単純な事では有りません。 水稲作というのは、土木工学と治水技術のパッケージなのです。 中国の河姆渡遺跡には七千年前の水田の跡が有ります。 日本に稲作がもたらせられたのは、二千数百年程前。 エジプト人も五千年前には、すでに、小麦に嵌っていました。 ローマ時代には、平民には「パン」と「サーカス」を与えておけば政権は安泰と言われたそうです。 世界中の古代文明で、何がしかの穀物類が生産され、食料の中で重要な地位を占め、その伝統が今日迄繋がっています。 パンにしろ、麺であれ、ご飯であれ、穀物には人を魅了してしまう力が有ります。 農作物になる前に、野生種は有り、今でも、自然界には存在します。 この野生種の穀物類を、野生人であった頃のヒトが餌の一つとして食べていたかどうかは分かりません。 然し、野生のイネ科植物と農作物の米や麦とでは大きな違いが有ります。 野生種の物は実がついて、熟したものから、逐次、地面に落ちてしまうそうです。 それに比べて、農作物の穀物は、沢山の実が、同時に熟し、人が刈り取る時も全部くっ付いています。 効率よく収穫する事が出来ます。 農作物の物は突然変異で出来た品種の子孫と言われいてます。 これを、集中的に大量生産して、食品としているわけです。 味噌汁はもっと複雑です。 だしを何でとりますか。 うちでは鰹節の場合が一番多いのです。 鰹節は生の鰹をさばいて、身を四つに分け、火を通してから干します。 それに白かびを植え付け、殆んどの水分を取り除いて出来ます。手抜きをせずに、ちゃんと作るのには一年かかります。 味噌は、農作物として作られた大豆と米麹と塩が必要です。 種類によっては麦も使います。 麹菌を操ることも単純では有りません。 塩だって、作るのは手間隙かかります。 材料が全部揃ってから、味噌になるまで、最短でも三ヶ月かかります。 味噌汁の具に油揚げを入れるとなると、豆腐を作る手間の上に、油も必要です。大量の菜種とかゴマが要ります。 漬物も、大体のものが、乳酸菌を操って作ります。 そして、魚の干物にみりん干しなど食おうとすれば、みりんがいります。 これも、本物となると、もち米と米麹と焼酎が必要です。 Aコースは、何十人、何百人の、人々の努力の塊りなのです。 それを喰いたいと、言う事になれば、それ相応の対価が必要になるのは当然です。 Bコースは、全て、自分で海に入り(深い所へ行く必要はありません)、素手で取れるものです。 伊勢海老がなかなか捕まらないのでしたら、今日はサザエのつぼ焼きにしましょう。 果物も、もぎ取って食らうだけです。 身の回りに有る物を取って食らう。 素食です。 つづく。 一茶菜斎でした。 #
by sokate
| 2004-10-24 17:58
| 草花亭
草花亭になってからのポスティングを読み直して、校正を加えました。 私のモットーである「Never too late to right a wrong.」の実践です。 一茶菜斎でした。 #
by sokate
| 2004-10-15 00:20
| 草花亭
自由に飛び回っている鳥達を観察し、人間以外の生物の生き様を考え続けました。 彼らに有って私には無い物は何なのだろう。 浮かび上がった答えは「餌」でした。 動物は皆、自然界の中に自分の餌を見つけ、欲しい時に好きなだけ食い散らして、悠々自適の毎日を送っているのです。 食い物さえ確保出来れば、生きて行くことは出来ます。 これが「生」「物」の基本中の基本です。「生」さえ維持出来れば、後はオマケ、付録、余興と言ったようなもんです。 私の今の生活に於ける「餌」は殆んどが、経済社会で作られて商品として売られている物です。 僅かな例外は、庭から取ってくる山椒の実や、葉っぱ、月桂樹の葉、シソや茗荷、ローズマリーやバジル等等。 細かく数えれば、三十種以上の食用、薬用になるものが庭に有ります。 でも、そんなもの、全部足したって、食い物の一、二パーセントになるかどうかの事でしよう。 あとは全部、食料品として生産されたものを購入して食べているのです。 生まれながらのままでは、身の回りに「餌」になるものが有りません。 自然界の中に有る物の中で、どれがヒトの餌に向いている物なのか知りません。 どうやって見つけるのかも分かりません。 でも、これが本来のヒトの姿で或る筈は無いですよね。 我らの祖先は太古の時代から壱(いち)動物として生きてきた筈です。 現在の野生動物が皆そうであるように、ヒトも周りに有る「餌」を取って、喰って生きていた筈です。 チンパンジーの祖先と我らの祖先が別れてから六百万年以上経つと言われます。 農業が何時始まったかについての研究は未だ推測の域を出ていません。 三内丸山遺跡にあった栗の木は食料用に沢山植えたものだと思います。 中国の河姆渡遺跡では七千年前の稲作の遺跡が見つかったと言われています。 「ひょうたん」はアフリカが原産地で、九千年前頃から広範囲に伝播して行ったと、聞いています。 考古学の更なる進展が待たれるところです。 今、分かっている事に基づいて考えれば、現在の農業に繋がる、人間の能動的な食用植物の生産は、一万二千年前に最後の氷河期が終わってからの事の様です。 でも、農耕の産物がヒトの食べ物の主流になったのは、ずーと後の事でしょう。 私の親の世代でも、農産物では無い、自然界の物を色々と食用に取り入れていたと聞きます。 今でも、各地方ごとに、地元の名物などとして自然食が使われている様子がテレビの番組などでも良く観られます。 私のような都会式生活だけで過ごしてきた者が一番無知なのかもしれません。 奈良、平安時代に、全国から産物が都(みやこ)へ送られた記録が木簡として残っています。 既に「家畜化」された人達が存在していた証です。 歴史に記録された過去の文明とは都会式生活の存在の記録でも有り、「家畜化」された人間の存在の記録でも有る訳です。 そういった生活をしている人達が、その時代の全人口の中でどの位の割合だったのかは分かりません。 然しながら、現代の日本に於いては100%に近いのでは無いでしょうか。 自然界に元々あった、我らが人類にとって、一番自然な餌についての知識が、いつの間にかに消えてしまった様です。 農耕という技術革新を達成して、それが発展することに反比例して、自然界にある「餌」の知識を失って来たのでは無いでしょうか。 新しく得るものが増えると、並行して、失ってしまうものも出てきてしまう様です。 又、ちょっと、横道にそれますが、ほんの、ちょっと。 記憶力のことについてです。 稗田阿禮(ひえたのあれい)が、多分、職業として、全部記憶してきたことを語るのを聞き取り、文字で書いて記録にしたものが「古事記」です。 ホーマーと呼ばれた眼くらの吟詩師が、何百年も語り継がれて来た詩を諳んじて、それを書き起した物が、ギリシャ神話の「イリヤード」と「オデッシー」です。 昔、昔、その昔、ヒトは無限の記憶力を持っていたのではないかと思います。多分、赤ん坊を終わった頃から死ぬ日まで、自分で喋った事、一生を通して聞いたこと、全部を完璧に記憶していたのではないでしょうか。 今日、現在、地球上には、口頭でのみ、伝承を伝えている文化が僅かながらといえども残っています。 でも、其の人達の伝承を文字で書き残したら、口頭伝承の伝統は消えるでしょう。 「文字」と言う、文明にとっては、かけがえの無い様に聞こえる、重要な発明が、実は、「記憶力」というヒトが数百万年に渡って継続してきた、ヒト特有の特性を潰してしまった可能性も有るのです。 その可能性は、可也高いと言うのが小生の、現時点での考えです。 この横道を挟んだのは、食べ物に付いても平行線を感じたからです。 自分で自由自在に食品を作れる様に成るのと反比例して、自然界に元々有った「餌」から離れて行くのではないのでしょうか。 そして、食品を自由自在に作っているのは誰でしょう。 私ではありません。 私は只の消費者です。 否。 家畜化された一人間でした。 つづく。 一茶菜斎でした。 #
by sokate
| 2004-10-14 00:22
| 草花亭
経済的で効率の高いことがいけないと言う積りは有りません。 高度に発達した分業体制の複合体だからこそ、我々が取得したり、消費する事が出来るものは沢山有ります。 今、私が使っているパソコンだってインターネットだって、現在の世の中が効果的に廻っているからこそ、私もその恩恵に与っている訳です。 晩酌にしている薩摩芋焼酎だって、経済発展があるから私も飲む事が出来るのです。 問題は自分の生活の全てが、高度に複雑に発達している経済活動から作り出されるもののみで構成されていることです。 衣、食、住、職、通信、交通、医療、保険、金融、教育、娯楽、など等。 これを貨幣経済システムで廻しているわけです。 恩恵を受けるには、システムが唯一認めている、対価(貨幣や物々交換など)での決済が必要です。 自分の行動もシステムが認めた形でなければ決済に使える価値(現金収入など)を得る事が出来ません。 この社会システム以外の価値観は通用しないのです。 「働かざる者喰うべからず。」と、どなたかがおっしゃっていました。 一見、この世の正論を言っているようにも聞こえます。 でも、何かしっくりとしないので、脳裏に焼きついていました。 人は「生まれて来る」と言う事に関して、自分自身では関わってはいないのです。 親が、祈りを込めて、子創り励んで来たのであろうが、たまたま出来ちゃったのであろうが、全て、自分自身が存在する前の話だ。 生まれてきたら、そこに、既にルールが出来上がっていて、そのルールに従う以外の選択肢は無い、と言う事です。 それで又、好き勝手に飛び回っている鳥を見ながら、どこで人はおかしな事になってしまったのだろうと、思案が続くのでした。 つづく。 一茶菜斎でした。 #
by sokate
| 2004-10-12 14:59
| 草花亭
ちょっと、脱線させて下さい。 昨日、「すっぱいリンゴ」の事を書きました。 話の流れの中での、例、として取り上げたのですが、只単に、適当なことを言ったのでは無いのです。 噛むと、パリッとして、シャキシャキ感が有り、甘さを殆んど感じない林檎です。 食べた事の有る方も大勢いると思うのです。 でも、最近、お店では見かけなくなりました。 何で、私がこれを欲しがるのかと言うと、酒のつまみにする為です。 この、パキッとした林檎とチェダー・チーズの組み合わせです。 出来れば、熟成した”extra sharp”が欲しいです。 其々を同じ位の厚さにスライスします。 私の好みは3.5ミリづつ、合わせて7ミリ。 これが、スコッチ・ウイスキーの合いの手として、良いんです。 だから、甘く無い、「すっぱいリンゴ」が欲しいのです。 でも、買いに行くと、見つからないでしょう。 そんな物に対する需要は微々たるものである(筈だ)から、商品としては外すべし。 と、何処かの、馬の骨で、味音痴の、木偶(でく)の坊が決めちゃったからです。 似た様な経験は、皆さんも、色々な場面でお持ちでは無いでしょうか。 「おい、おい、おい、俺が欲しいものを、勝手に決めてくれるなよ。」 甘い、甘いトマトなんて、欲しくない。 やわらかーい(脂肪分の多い)牛肉なんていらない。 富有柿、嫌い。 他の柿を店先にならべてくれ。 など等。 ご自分の好みに照らし合わせて、今の世の中で、お店に並んでいる物と、比べて下さい。 選択権は貴方には無いのです。 貴方に許されている事は、並べられている物の中から選ぶことだけです。 今年のアメリカ大統領選挙みたいですかね。 You can choose whatever you want、so long as it’s a Coke or a Pepsi. 脱線しすぎの様なので、元に戻ります。 選択権が本当に有ったのか。 有ったとして、誰に有ったのか。 貴方ですか。他の人なのでしょうか。 脱線でのお話ですが、これが「人の自己家畜化」と絡んで来るのです。 又、その内、続けます。 一茶菜斎でした。 #
by sokate
| 2004-10-10 23:25
| 草花亭
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